自由を得るには不自由が必要である

【自由を得るには不自由が必要だってこと】

高校の時に同級生が「俺は自由で居たいんだ!」と言って中退していった時に、自分が思ったこと。

約20年の時を経て改めて整理すると【制約を受け入れて、初めて自由を得ることが出来る】という事になるのかと。
 
 
さて、昨今ほとんどの「自由が欲しい!」と言ってる人達は、どうにも自由を履き違えている人だらけ。
 
他人に迷惑をかけてまで得た自由は、果たして本当に自由と呼べるのか?
結果、自らの精神的な束縛になってはいないだろうか?
他人に迷惑をかけたのなら、せめて迷惑をかけた分をしっかりと返してからこそ、本当の自由を得られるのではないか?
 
 
かくいう私も無所属自由人を名乗っているが、ただ自由を求めて生きている訳ではない。
自由を得るためには、やるべきことをしっかりとやる、という大前提の元にしている。

更にある意味、哲学的な話になってしまうが、そもそも自分という存在を客観的に見た上でないと、「自分にとっての自由」という定義は出来ない。
にも関わらず、自分を棚に上げて、自由を!と叫んでる人が多いのは、ほんと嘆かわしいことである。


わがまま=自由では無い。
 
 
そもそも人間は自分の身体からして自由に出来ない。
食欲、性欲、睡眠欲…自分の欲求に従って欲望のままに過ごせば、結果がどうなるかは言わずもがなだ。
 
深呼吸の微調整でしかコントロールする術が無い自律神経は、自分の意志でどうにかなるものでは無いものにも関わらず、生きる上でとてつもなく重要なものだ。

そんな自分の身ですら自由に出来ない、自分という存在… 

親のすねをかじり続けるのも良いでしょう。
会社に頼るも良いでしょう。
しかし、それは自由ではなく【依存】である事に気付くべきである。
依存するなら自由を叫ぶべきではない。

ほんとうの自由とは何なのか?
自分という人間と置かれた環境を踏まえて、しっかりと考えるべきである。