『言葉』は『命』か
池田晶子氏の『あたりまえなことばかり』
という本を読んでいる。
本の内容は哲学なのだが、
その本のイントロダクション的な部分に、
下記のようにが書かれていた。
〜〜〜〜〜〜
人には言葉が命であることを、経験的に知っている。
死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、
医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である。
〜〜〜〜〜〜
読んで『はっ!』としてしまった。
自分が自分であり、生きていること・・・
自分の内と外の世界・・・
アイデンティティ・・・
全て『言葉があってこそ』意識できている。
しかし『コミュニケーション』という括りでは、
バーバルとノンバンーバルが存在する。
ノンバーバルは、言語といいつつも、
直接は言葉を必要としていない。
赤ちゃんが泣いたり笑ったりするのが、ノンバーバルだが、
赤ちゃんが『言葉』を意識して泣き笑いしている訳ではなく、
本能でそうしている。
しかし、逆にそんなノンバーバルを使用する赤ちゃんを見る側、
つまり大人は、そのノンバーバルを言葉に変換し理解する。
ミルクやおしめ等、赤ちゃんは、ただ泣くだけで、
『言葉』を一切使用していないが、
大人は『感覚』で察知し『言葉』で理解する。
そのうちに、そんな赤ちゃんも言葉を覚える。
誰も強制していないのに、何故言葉を覚えるのか?
必要だからだ。
人間は『言葉』無しでは、生きていられないのだ。
人は『言葉』によって成長する。
そしてそれは、なんとも不思議な話だ。
ともすれば、やはり『言葉』は『命』であろう。
※おまけ
〜〜〜〜〜〜
佐藤雅彦先生の『イメージの読み書き』
この作品は『イメージ』というものを、
『読み書きしてしまおう』というところに凄さがある。
『イメージ』と『言葉』という、
ある意味、別次元のものを繋げてしまった。
※『ブリヨルガグールアト』なんて典型的。
だからこそ、面白い。
〜〜〜〜〜〜